私は現実を生きるのが苦手だ。
私は現実を生きるのが苦手だ。
昔からそうだった。
暇さえあれば自分の想像の世界へと旅立ってしまう子供だった。
私はそれを心の旅と呼んでいる。
私が心の旅を始めたのは小学生の頃からだ。
おかげで、周りからは「ボーッとした子だ」と言われることもあったが、自分としては忙しく思考を巡らしているのだ、と文句を言いたいことが時々あった。
一方で私は目立つことも好きだ。
自己顕示欲が強いのだろうか。劇で目立つ役をやったり、人前で笑いをとったりすることが好きだ。
それでも私は、心の底で「自分は日陰者であるべきだ」と考えている部分がある。これは「目立つのが好き」という自分と相反するものだが、どちらも自分自身である。
このことに気がついたのは小学6年生の頃で、初めて匿名掲示板に書き込みを始めた時期であった。やんちゃな糞ガキである現実の自分と、匿名掲示板に書き込む日陰者の自分の両方とも自分自身であることが不思議な感覚だったことを思い出す。
今でも私は暗い部屋で一日中引きこもって本を読んだり、匿名掲示板の下らないスレに書き込みを行うときに生を実感している。「日陰者であるべき」という自分を満たしてくれる行為はこれ以上ない。かと思えば、友人と遊んでいる時、通話しているときは「日陰者でいるべき」自分はすっかり消えてしまう。
思うに、「本当の自分」だの「本性」だのそんなものはないのではないか、と思えてくる。「自分は日陰者であるべきだ」と考えている自分も、「目立ちたい」「友人と遊んでいて楽しい」と考えている自分も、どちらも自分の本性だ。その時の気分、テンションによって、どの自分が強く顕現するかの違いでしかないのではないか。
そういう訳で今私は、多少アルコールが入っているため、「普段の『心の旅』で考えていることを発信したい」自分が強く顕現したため、この文章を書いたという訳である。
人生に占める才能の割合って?
前々回の記事で「人生は才能が7割」と述べましたが、あくまで僕の主観的なものだったので、今回はデータをもとに考えていきたいと思います。
まず、「才能」とはなにかという話なので、辞書を引いてみましょう。
さい‐のう【才能】 才知と能力。ある個人の一定の素質、または訓練によって得られた能力。「―を発揮する」「―に恵まれる」
だそうです。
ここで驚いたのが、辞書的には「訓練によって得られた能力」も才能の1つなのですね。
以前の記事では、「ある個人の一定の素質」の意味のみで使っていました。これは反省。。。
つまり、前々回の記事は「才能」を「素質」に言い換えて受け取っていただければ幸いです。
そこで、今回は「人生において、素質が重要視される分野とされない分野」について考えてみたいと思います。
それでは次の表を見て下さい。
身長と体重は9割以上が遺伝です。これは間違いなく素質が必要だと言えるでしょう。
性格は遺伝と環境の割合が半々です。僕、性格に関しては環境によるものが大きいと考えていたんですが、遺伝が半分占めるんですね。とはいえ、人格を決定する「幼少期の環境」は親が決める場合が多いため、やはり人格形成に親が占める割合は相当大きいと言えそうです。
また、「音楽」「執筆」「数学」「スポーツ」は特に遺伝の影響が大きいらしい。
これはわかる気がします。中学生のころ、数学がわからない、と言って動く点Pの問題に文句言う人、x円のリンゴなんてねーよ、って文句言ってる人が沢山いました。僕は当時は数学が得意だったので何がわからないのか意味不明でしたが、あれはただ単に自分に素質があっただけで、言ってみればそういう籤を引いたんだな、という解釈を今はしています(ちなみに僕は高校でつまづいたので、数学に関してはそこまでの素質だったなぁ、と自分では考えています)。
スポーツに関しても同様で、僕はスポーツのセンス0です。小学生の頃から、結構長い時間水泳の練習に時間を費やしてきたのですが、中学生になっても県大会に遠く及ばないレベルでした。また、中学で水泳を始めたばかりの同級生と同じようなタイムだったりして、自分の素質の無さをひしひしと感じていましたね。
また、「統合失調症」「自閉症」「ADHD」は約8割が遺伝するという恐ろしいデータもあります。偏見ですが、これらの病気って性格との境界線が曖昧だと思っているので、環境よりも遺伝が大きいというのは意外でした。
それ以下はそこまで遺伝の影響が大きいものはない気がします。
さて、前々回の記事で僕は「人生は才能が7割」と述べましたが、「才能」を「ある個人の一定の素質」と言い換えると、それは遺伝によるものなので、「人生は遺伝が7割」と言っているようなものです。
素質とは遺伝によるものだけではないので、何とも言えない言い難い部分ではありますが、努力や環境ではどうしようもない分野は存在する。そして、そのどうしようもない分野で素質がある人に勝つのは不可能なので、自分の素質があるフィールドを探した方が良い、というのが僕の考えです。
人生は遺伝が7割というのは、主語がデカすぎました。人生って笑
とはいえ、能力に関しては遺伝が7割というのは間違ってはいないと思います。大切なことは、持っているカードを活かして、以下に自分の人生を豊かにしていくか、ではないでしょうか。
最後に、僕が好きなスヌーピーの言葉を紹介してこの記事を締めくくろうと思います。
You play with the cards you’re dealt …whatever that means.
(配られたカードで勝負するしかないのさ…..それがどういう意味であれ)
「うっせぇわ」に共感する陰キャな若者たち
ここ2ヶ月くらい「うっせぇわ」という曲が流行っている。この曲、「反抗期の中学生が聞いてそうで痛々しい」と言われることが多いが、歌詞を聞いてみれば、恐らく社会人になりたての20代前半の目線で歌われた曲であることがわかる。
僕はこの曲は所謂「陰キャ」が共感できる歌詞なのではないかな、と思う。そこで、歌詞を追いながらその心理について考察していきたい。
正しさとは
愚かさとは
それが何か見せつけてやる
ちっちゃな頃から優等生
気づいたら大人になっていた
ナイフの様な思考回路
持ち合わせる訳もなく
でも遊び足りない 何か足りない
困っちまうこれは誰かのせい
あてもなくただ混乱するエイデイ
ここは、要するに小さい頃から問題行動を起こすことなく、無難に過ごした結果大人になった、ということだろう。
僕が思うに、「優等生」というのは勉強やスポーツに努力してきたという意味ではなく、ただ喧嘩や争いを起こさずに過ごしてきた、という意味合いであると思う(自分では優等生だと思っているが、側から見ればただの地味な人)。
それゆえに大人になった今でも、「何か足りない」「遊び足りない」と感じている。
そして、困っている原因を生み出したのは優等生であった自分ではなく、自分以外の誰かだと思っているわけだ。
それもそっか
最新の流行は当然の把握
経済の動向も通勤時チェック
純情な精神で入社しワーク
社会人じゃ当然のルールです
「それもそっか」以下は、自分より年上の世代が作りあげている「社会人じゃ当然のルール」である。上の世代から説教されている気分なのだろう。これに対して、若者はこう叫ぶ訳だ。
はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な
あなたじゃ分からないかもね
嗚呼よく似合う
その可もなく不可もないメロディー
うっせぇうっせぇうっせぇわ 頭の出来が違うので問題はナシ
ここを要約すると、「あなたが思うより私は健全な人間だからいちいち口出しするな」といった感じだろうか。恐らく会社の上司やら先輩やらが、「そんなに大人しいようじゃ駄目だよ」みたいなことを言ってきたので、それに対して心の中で反論しているのだろう。
つっても私模範人間
殴ったりするのはノーセンキュー
だったら言葉の銃口を
その頭に突きつけて撃てば
マジヤバない?
止まれやしない
不平不満垂れて成れの果て
サディスティックに変貌する精神
ここ、模範人間だから人を殴ったりはしない、と主張しているが、別に人を殴らないことなんて当たり前なので語り手の「模範人間」に対するハードルの低さが窺える。
それ以下は文句を言い出したら止まれない、と言ったことをカッコよく言い換えてるだけ。
クソだりぃな
酒が空いたグラスあれば直ぐに注ぎなさい
皆がつまみ易いように串外しなさい
会計や注文は先陣を切る
不文律最低限のマナーです
「酒が〜マナーです」の部分は先輩や上司の発言、それに対しての「クソだりぃな」という心境。
はぁ?うっせぇうっせぇうっせぇわ
くせぇ口塞げや限界です
絶対絶対現代の代弁者は私やろがい
もう見飽きたわ
二番煎じ言い換えのパロディ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
丸々と肉付いたその顔面にバツ
「くせぇ口」「丸々と肉付いたその顔面」は口煩い先輩や上司のもので、そいつらよりも私の方が現代の代弁者に相応しい(多数派である)という主張。
うっせぇうっせぇうっせぇわ
うっせぇうっせぇうっせぇわ
私が俗に言う天才です
この記事を書く前ここの歌詞知らなかったんだけど、ここは実際にそう(自分が天才だと)思っている訳ではなく、「自分は天才だから先程までの主張は間違っていない」という虚勢を張っているのだと思われる。
うっせぇうっせぇうっせぇわ
あなたが思うより健康です
一切合切凡庸な あなたじゃ分からないかもね 嗚呼つまらねぇ
何回聞かせるんだそのメモリー
うっせぇうっせぇうっせぇわ
アタシも大概だけど
どうだっていいぜ問題はナシ
基本的に今までの歌詞と同じだが、注目すべきは最後の最後に「アタシも大概だけど」が歌詞に入る点。
この言葉は「アタシは自分も大概だということがわかってますよ」という逃げの姿勢を意味しており、なんだかんだ文句を言いながら、自分も先輩や上司同様だ、と自虐的に述べている。
総評すると、この歌詞は「昔から喧嘩をしたりせずに無難に生きてきた若者が、口うるさい年長者に対して心の中で毒づいている」というものではないだろうか。心の中で毒づいたからと言って実際に争いを起こす訳でもなく、ただ不満を募らせている若者は恐らく多いだろう。
そういった若者たちの考えを代弁してくれている、という点がこの歌の流行った一つの理由なのではないだろうか。
個人的には、この曲のメロディーがメチャクチャ好きで、カラオケ行ったら歌いたくなってしまう。
また、叫ぶような感じで歌えるので、歌いながら自分の不満をぶち撒けられるのかなー...とも思う。こうした魅力的な曲調も流行の一因だろう。
いかがだっただろうか。確かに、「うっせぇわ」は反抗期の中学生が好みそうな曲ではあるが、意外にも共感できるのは社会的になりたての若者、特に上司に不満を感じながらも、中々自分の主張ができない人々ではないだろうか。
そういった若者の心の叫びを、この曲は代弁してくれているのかもしれない。
絶対絶対現代の代弁者は私やろがい
...確かにそうかもしれない。
人生は「才能」が7割。
前回の記事で、「自分の才能を活かせる場所を見つけることが大事」みたいなことを書いたと思うんですが、それは何故かと言うと、人生は7割方才能によるものではないかと僕が思っているからです。
才能よりも努力のが大切だ、という意見をよく耳にしますが、僕は寧ろ才能のほうが能力に対する寄与が大きいと考えています。
わかりやすいのが容姿です。
ファッションに気をつけたり、話し方や姿勢、体型に気を配るなど、自分の努力できる範囲内で自分の容姿を向上させることは可能です。一方で、それらを改善したからといって、骨格が変わるわけではないし、顔のパーツの位置が変わるわけではないし、身長が伸びるわけではない。自分なりに容姿に気を配るのはとても大切なことですが、「容姿に恵まれない人」が「容姿に恵まれた人」になることは困難である、と僕は考えます。
「学力」や「運動神経」についても同様のことが言えると思います。
中学の勉強でつまづいている子がいくら努力しても東京大学に入ることはまず不可能ですし、50m走が8秒台の子が短距離でインターハイに出場することもまず不可能です。
僕が思うに、勉強もスポーツも、「できる人」は自分なりに努力はしているものだとは思いますが、「できない人」が同じ量の努力をしても、「できる人」の域に到達するのは難しい。
さらに言えば、適切な努力ができることも才能だと言えます。例えば、努力量が100でも、間違った方向に努力すればマイナスにいってしまうこともあり得ます。
そう考えると、僕は「自分には才能がない」と思われる分野については、最低限の努力(努力を全くしないというのは駄目です。例えば、自分はブサイクだからといって、全く容姿を気にせず、浮浪者のような外見でいたら関わる相手にも失礼です)をして、「才能がある」と思われる分野に努力のリソースを割く、という生き方が1番賢いと思います。
「とは言っても、自分には何の才能も無いし...」と思う人もいるかと思います(自分もその内の1人です)。その場合は、自分の好きなことをやってみるのがいいんじゃないでしょうか。「好きこそ物の上手なれ」は本当に至言だと思っていて、「好きである」ことは最強の才能だと思います。
僕の場合、ブログを書き始めたのも自分は文章を書くのがまあまあ好きなことと、自分には文章の才能があるのか、を確かめたかった、という理由があります。
好きなものがない、という人はほとんどいないでしょう。ならば、人は必ず何かしらの才能がある、というのが僕の考えです。ただ、好きなものが嫌いになってしまってはしょうがないので、楽しみながら好きなことを続けていく、というのが自分の能力を伸ばすいい方法なのではないでしょうか。
「有能な人」ってどんな人だろう?
「この人は有能だ」「この人は無能だ」みたいな表現を耳にする機会って割とあるんじゃないかと思います(自分だけ?)
こんな時、ふと思うのは「有能って何」ということです。
辞書を引いてみましょう。
ゆう‐のう〔イウ‐〕【有能】
の解説
[名・形動]才能のあること。また、そのさま。「有能な人材」「有能の士」⇔無能。
む‐のう【無能】
の解説
[名・形動]能力や才能がないこと。役に立たないこと。また、その人や、そのようなさま。「無能な指揮官」「無能無策」
なるほど、能力や才能がある人は「有能」、ない人は「無能」であることがわかりました。
とはいえこの定義、実生活においては中々ピンと来ないものなんじゃないかな、と思いました。例えば鳩山由紀夫氏は様々な才能に恵まれた人物ではあると思うのですが、「無能な政治家」とされることが多い気がします(※個人の意見です)
そこで僕が思ったのは、「有能」「無能」というのは、その人が所属しているコミュニティによって変わる、ということです。
例えば、僕は非常に手際が悪いです。以前、居酒屋でバイトをしていたことがあるのですが、仕事のスピードは遅いし、締め作業とか覚えられんしで、居酒屋従業員としては間違いなく「無能」であったと考えられます。
ただ一方で、僕は絵を描くことが好きで、店内の絵とか、pop作成は自分がやらせてもらっていました。ここだけ見ると、イラスト作成においてはその集団のなかで比較的「有能」な部類にあったのではないか、と思います。
居酒屋のバイトというコミュニティ上、重要度は手際の良さ>絵の上手さなので、僕は無能な人材であったと思われますが、もしこれが逆であったら、有能も無能も逆転するかもしれない、と思います。
鳩山由紀夫氏の例でいくと、東京大学工学部計数工学科卒業、スタンフォード大学大学院博士課程修了なわけですから、もしかしたら「有能な研究者」として名を馳せていた可能性もありますよね。
ここで僕が思ったことは、自分の得意なことを上手く仕事にできたら「有能な人材」になれる可能性が高まるんじゃないかな、ということです。特技がない、好きなことがない、という人はあまりいない、というのが僕の持論です。誰しもが自分の得意なフィールドで仕事ができるわけではない。だからこそ、「有能な人」「無能な人」という表現が生まれるのではないでしょうか。
僕自身、自分が何の才能があるか、全然わかっていません。だからこそ、色々なことにチャレンジしながら、自分の才能を見つけていきたいな、と考えています。
SNS使うのってすごく疲れませんか???
最近、自分の中で「SNS疲れ」が酷い時期があって、一時期このTwitterもInstagramもアンインストールしていた時期があるんですね。(流石にLINEはないと日常生活送れないので使ってましたが)
SNSって、嫌でも人の思いや考えに触れるじゃないですか。例えば、Twitter 上では男女不平等だのフェミニストだの、こういう人とは関わらない方がいい、だの、誰々が絶賛炎上中、だのの論争が日夜繰り広げられています。
確かに社会をよりよいものにするために必要な議論も沢山あると思うんですが、中には単なる喧嘩みたいなものも多く(というか、そちらの方が多い)、そういったものを見るのは時に疲れてしまいますよね。
それでも僕の、というかみんなそうなのかもしれませんが、見て嫌な思いをするとわかっているのに見てしまうんですよね。例えば、昔付き合っていた人のSNSをついつい見てしまうとかありがちだと思うんです。
最近、とある経営者の方が、昔事故を起こしてしまった件で、被害者の方が未だに快復に向かっていないという記事を見ました。
その経営者の方は界隈では有名な方だそうで(大きなオンラインサロンを運営しているとか)、被害者の親族の方からすれば、自分の息子を傷つけた人がふと目に入ってしまう、という状況なわけです。これは、このSNSが発達した現代ならではの辛さではあると思うんですよね。
これはちょっと捻くれた僕の考えかもしれないんですが、Instagramって自分の幸せ自慢披露場みたいなところあると思うんですよ。
僕も以前まではガンガンストーリーとか載っけてたんですけど、よく考えてみるとこれって何のためにやってるんだろう、と思ってしまいました。楽しい時間は、その瞬間に一緒にいる人と共有すればいいのであって、なんでわざわざその場にいない人に見せる必要があるんだろう、と。
あの人はあんなに幸せそうなんだから、自分も負けずに幸せなアピールしないと!みたいな考えに囚われてインスタやってる人、割といると思うんですよ。
そういったことをグルグル考えてしまって、SNSを最近まであまり使わないようにしていたんですが、やっぱりこれから生きていく以上避けては通れないものではあるので、うまい付き合いかたを見つけていきたいものです。
開設,youtubeはじめました
大学院進学にあたりブログを開設致しました。